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大川橋蔵映画祭 実行委員会
発起人 中島貞夫

 日本映画史を辿ってみると二度に渡って時代劇の黄金期があった。一度目は第二次世界大戦以前の昭和の初期。そして二度目が戦後の昭和20年代後半から30年代にかけてのそれである。いずれに於いてもそれを支えたのが強力な時代劇スターの存在であった。第一期では阪東妻三郎を始め大河内伝次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎、長谷川一夫等々、そして戦後では、そうした戦前からのスターに加え中村錦之助、大川橋蔵、市川雷蔵、大友柳太朗、勝新太郎等々の若手スターが加わり時代劇ファンを熱狂させたのだった。

 私事になるが、私が東映の京都撮影所の助監督となったのが昭和34年。この年東映は史上最大の観客動員数をみたのだった。当時の東映京都撮影所は超多忙を極め、そこでは「歩いている者はいない、皆走っている」そんな流言が東京に迄届いていた。そしてそれが、単なる流言ではないことを間もなく体感することとなる。着任して間もなく、西も東も判らぬままに駆り出された琵琶湖西岸の高台のロケ現場。それは橋蔵さんの主演作品『紅顔の密使』の撮影現場だった。さすが画面では巧みに糊塗されているが、あのラスト近くの胆沢城の攻防戦、実は降りしきった雨と人馬の激しい動きで辺り一面がまさに泥田状態。そこで更に連日早朝から夕刻迄、過酷極まりない撮影が続く。そんな中、気が付けば、一人涼しげな容姿で端然と出番待ちをしている橋蔵さんの姿。その時はわが身との余りの違いに思わず「スター面しやがって」と呟いたが、思えばそれがスターであり、大川橋蔵さんだったのだ。以来、助監督時代『恋山彦』『若さま侍捕物帖シリーズ』等を通じ、橋蔵さんとのお付き合いが深まり、『旗本やくざ』では監督を担当することになる。貴公子然たる橋蔵さんも魅力的だが、私自身は橋蔵さんの軽妙洒脱な二枚目半的お芝居が好きだった。

 今回橋蔵さんの主演作品がずらり勢揃いすることになるが、これも今にしてなお橋蔵さんを愛し続けて下さる熱烈なファンの方々がいてこその催しである。更に今回は、そうした方々の間に気運が盛り上がりニュープリントも焼かれることとなった。御存知のように映画は一本のネガフィルムから何本ものプリントが焼かれ、それが各地の映画館にかかる仕組である。しかし何百回もの上映後には、当然プリントの状態は悪化する。折角の作品上映には、是非封切時と同じ美しい映像で作品を鑑賞したい。その願いを叶えるには新たなプリントを作成せねばならないが、その為には多大の費用が必要となる。その負担に耐えてもなおニュープリントを望むのは、まさに青春の日に橋蔵さんに憧れを抱いたあの日を再確認したい、そんなファンの方々の熱い熱い想いに外なるまい。今にしてなお愛され続けるスター、錦ちゃん然り、雷蔵さん然り、そして大川橋蔵さん。今回の上映会が若い人々にも橋蔵さんを知って頂く機会ともなり、盛況裡に開催されんことを願っている。

中島貞夫監督
1934年、千葉県出身。東京大学文学部卒。在学中に倉本聰(現脚本家)らとギリシャ悲劇研究会を創立、演出を手がける。1959年東映に入社、京都撮影所に配属。マキノ雅弘、田坂具隆、今井正、沢島忠ら一流監督の元で助監督を勤める。1964年『くノ一忍法』で監督デビュー。1966年、東映京都12年ぶりの現代劇『893愚連隊』で後の実録路線の先鞭をつける。1971年『懲役太郎 まむしの兄弟』1972年『木枯し紋次郎』など、既成の任侠映画と一線を画す革新的な作品群を手がける一方、1967年『大奥マル秘物語(秘の字に○)』1969年『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』『日本暗殺秘録』など際どい素材へ大胆にアプローチした作品を連打。その後も、1974年『脱獄・広島殺人囚』1976年『狂った野獣』などの傑作が70年代東映実録アクション路線を支え、70年代後半からは1977年『やくざ戦争 日本の首領』、1979年『真田幸村の謀略』などの大作や、1991年『新・極道の妻たち』などヒットシリーズを手がける。1987年、大阪藝術大学教授に就任(1997年から同大学大学院教授、2008年退官)、1997年から京都映画祭総合プロデューサー、2011年4月、立命館大映像学部客員教授に就任。

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